周平春秋2「あてもなく生きることが日常であり」

常態であるやうな人びとの暮らしが、遠い江戸の市井にあつた」と桶谷秀昭さんが言う。(「人間哀歓をの風景を描いた作家」)
 でもさあ、彼の市井小説に登場する人びとだって、その日その日のささやかなあてはあった。十三夜の夕餉どき、なかなか帰ってこない夫を待っている妻。なにかあったんじゃないのか、どこかの女と歩いているのを見かけたという隣のおかみさんの告げ口などが頭の中に膨らんでいく。待ちくたびれたころ、夫はすすきの束を抱えて帰ってくる。
「ただいま」の声に、それまでの妄想が一挙に解消していく。「どこをほっつき歩いていたんだよ」「ごめん、仕事が伸びてしまってよ。それに帰りがけに今日は十三夜だと気がついてさ、土手のすすきを集めていたら、こんなに遅くなっちまった」妻は夫の胸に飛び込んで泣いた。
 日常というのは、「おはよう」 「いってらっしゃい」 「ただいま」 「おやすみ」の連続なんだろうと思う。自分の「あて」はそんな日常の中にしかないけど、それはとても大切なものなんだということを藤沢周平さんの小説を読むと思い知らされる。些細な事がとても愛おしいのだ。 
きっと、日常から離れてあてのある仕事に我を忘れているとき、ふと気がつくのはそうした些細な日常にちがいない。藤沢周平が、こうしたささやかな日常を丹念に描いたのは、きっと「人生であるとき絶望的に躓き、回復不能な」体験があったからだと桶谷秀昭は言う。周平さんの市井小説は「とりかえしのつかない過去への愛情から生まれた」。



by hontokami | 2018-01-09 14:17 | 藤沢周平 | Comments(0)

思い出すことといったら些細な事ばかり