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1992年64歳のとき、上杉鷹山と米沢藩を舞台にした『漆の実のみのる国』に取りかかった。
しかし94年から肝炎に苦しんだ。96年3月入院した。『漆……』の雑誌連載は中断された。あと四十枚というところだった。体調思わしくないなか、96年7月、自宅で机に向かい、原稿用紙6枚分を書き上げ、最終回とした。その半年後97年1月26日、69歳で亡くなった。

上杉鷹山と米沢藩の精緻を極めたものがたり『漆の……』を時間をかけて読んできて、最後のこの絶筆にさしかかったとき、まさに呆然とした。病をおして書きあげた6枚の文章のなんと美しいことか。そして漆の実が、鷹山が思っていたよりも小さかったことへのおどろきが最後にまた出てきて、素顔の藩主を周平さんは描ききってくれたんだなあと思った。周平さんのわたしたちへのメッセージなのかとも思った。

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(三十七)
莅戸善政は、例のごとくやや俯目に、黙然と坐って、治憲の声がかかるのを待っていた。治憲の前に差し出されているのは、のち十六年の組立てと呼ばれることになる善政の意見書だった。
治憲は一読してから顔を上げた。それは善政が隠退して書斎(部屋の隅のことである)に籠もっている間にまとめた改革案だった。そこには「総枇」など、隠退中の善政が心魂をそそいだ藩政改革のもとになる思想が扱われている。そのなかからまとまった改革案のひとつが、いま治憲の前に提出されている案の正体だった。
 改革政策案はその思案から生まれた、いわば果実である。
「よく出来ておる」
 治憲はその案の出来をほめた。だが、実際には、頭にうかんできたべつのことに気を取られていた。十六年組立てーー改革すべき項目を十六段階に分け、一年に一項目を実施してその上に次の新規の事業を積み上げて行くという方法である。
 善政は第一年目の事業に、藩政改革を挙げていた。当然そうあるべきことだった。藩政の乱れが、いま米沢藩の最大の障害となっている。武士が金儲けに狂奔していた。貧しいがゆえである。
 治憲はもう一度意見書に目を走らせた。そして後尾に殖産興業が控え目に配されているのを見た。
「殖産興業はもっとも肝心のことだが、これには資金の導入が必要だ」
 そしてつけ加えた。
「ところがわが藩はいま、すべての金主に背を向けられておる。どうするつもりか」
 善政は思い瞼を上げた。
「何とか、あたってみまする」
 何ともなるまい、と治憲は思った。ゆううつだった。
 しかしながら善政は、かたくなに凝りかたまった気金主たちの前に、裸のおのれを投げ出すようにして懇願し、ついにかれらが拒否の態度をひるがえして、藩の事業に出資する約定を取りつけたのである。
 殊に出府して藩最大の金主である三谷三九郎に会った善製は、まず従来の藩の係りが「彼所より借りて此処に返し、こちらより借りてあちらをくすぐり候」といわれた誠意のない対応を詫び、以後、もしこのような信義にもとることがあれば自分は 割腹も覚悟で対処いたすという腹をさらけ出した言い方で迫った。
 そして出資を待ちのぞんでいる藩の事業についてくわしく説明し、これらの殖産産業は資金の導入なくしては動かない旨を述べて懇願した。善政の誠意と迫力に圧倒された三谷はついに言った。どうぞ莅戸さまお手をお挙げください。もちろんそれによって、当方ももうけさせていただく身です。そこのところの誠意さえ示して頂ければ、資金を提供するに何の障りがありましょう。……
 その報告をうけた治憲のこころのなかに、ふたたび静かな感慨がもどってきた。
 しかし十六年組立てーー。この計画の特徴はすでに述べたように一年に一事業のみを行ない、積み上げて、その成果をたしかめながらすすめることである。事業の完結までには長年月を必要とする。年齢からいって、善政がこの財政組立ての成果である殖産産業が華咲くところをみることはおそらくむつかしかろう。
 しかし治憲はそのことに触れなかった。いたわりをこめて言った。
「善政、そなたのような人物こそ、真の政治家と申すものだ」
 善政はうつむき加減のまま、めずらしく微笑した。

治憲は享和二年に鷹山と改名し髪を総髪に改めた。文政五年、鷹山は池のほとりに出て、一月の日の光を浴びて立っていと。一月の光はか弱く、風はなかったが、光の中に冷ややかなものがふくまれていた。冬の日のつめたさである。
 鷹山は前年の十一月に、愛妻のお豊の方を喪った。糟糠の妻だった。その欠落感は大きく、冬日の中にじっと立ちながら、鷹山は胸の中に巨大な穴が空いている感覚を捨て切れない。
 だがいま鷹山の胸にうかんでいることは亡妻のことではなく、漆のことだった。
 米沢に初入部し、国入り前に江戸屋敷から国元にむけて大倹実施を発表したことで、入部するや否やむかえた藩士たちの激怒を買い、嘲罵ともいうべき猛反対の声を浴びてから五十年が経過している。白子神社におさめた大倹執行の誓文。竹俣当綱によって、漆の実が藩の窮乏を救うだろうと聞いて心が躍ったとき、漆の実は、秋になって成熟すれば実を穫って蝋にし、商品にすると聞き、熟すれば漆は枝先で成長し、いよいよ稔れば木木の実が触れ合って枝頭でからからと音を立てるだろう。そして秋の山野はその音で満たされるだろうと思ったのだ。収穫の時期が来たと知らせるごとく。
 鷹山は微笑した。若かったおのれをふり返ったのである。漆の実が、実際は枝頭につく総のようなもの、こまかな実に過ぎないのを見たおどろきがそのなかにふくまれていた。

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by hontokami | 2014-08-18 11:21 | 藤沢周平 | Comments(0)

儒学者細井平洲の辻講釈

いま、藤沢周平の『漆の実のみのる国』を読んでいる。
上杉鷹山の師で米沢の藩校興譲館の名づけ親でもある儒学者細井平洲の辻講釈が描かれている。
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 人だかりの中に、人品いやしくない男が立っていて、何事か講演していた。男の齢は三十前後、骨組みのしっかりした身体つきで、地面を踏みしめた足は微動もしない。
 しばらく耳を傾けているうちに、松伯は軽いおどろきを感じた。男の講じていることが経書の、それも礼記の一節ではないかと思われることにまずおどろき、つぎその講演をあきらかに市井の女房と思われる女たちがまじる聴衆が、粛然と聞いていることに、またおどろいたのである。
 むつかしい書物のことを話しているのに、男は誰にでもわかる平明な言葉を用い、その上ごく身近なところから豊富にたとえをひっぱてきて講義するので、聴衆がひきつけられているのだと思われた。
 男は噛んでふくめるように、ゆっくりと話していた。押しつけがましく大声でまくしたてることもなく、能弁だが、平板という退屈なしゃべり方でもなく、男は時にふと言葉を切って沈黙したり、語尾がひとりごとのような形で消えるにまかせることさえある。だが講演はふたたび快い音声を取りもどして耳にせまってくる。松伯はいつの間にか話にひきこまれて、立ち去りがたい気持ちになっていた。  

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講釈はこうであらねばならない。
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by hontokami | 2014-08-14 08:56 | 藤沢周平 | Comments(2)

海坂藩の職制図

藤沢周平の海坂藩の職制図がやっと完成しました。 これからは実際に小説を読み直して細かい修正を加えていこうと思っています。周平ファンのかた協力して下さい。
よくわからないところもあります。たとえば、近習小姓小納戸はいずれも藩主の近くにいて、身の回りの世話をする役ですが、どのように分担されているのか、 用人家老との分担などもちょっとわかりにくい。
               『蝉しぐれ』の文四郎は普請方の養子として育ち、郡奉行になりおふくさんに再会します。
               『三屋清左衛門』は小納戸役から累進して最後は用人となり52歳で隠居します。
               『必殺剣鳥刺し』の兼見三左エ門は近習頭取です。
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by hontokami | 2014-06-24 10:19 | 藤沢周平 | Comments(0)

常態であるやうな人びとの暮らしが、遠い江戸の市井にあつた」と桶谷秀昭さんが言う。(「人間哀歓をの風景を描いた作家」) 
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 でもさあ、彼の市井小説に登場する人びとだって、その日その日のささやかなあてはあった。十三夜の夕餉どき、なかなか帰ってこない夫を待っている妻。なにかあったんじゃないのか、どこかの女と歩いているのを見かけたという隣のおかみさんの告げ口などが頭の中に膨らんでいく。待ちくたびれたころ、夫はすすきの束を抱えて帰ってくる。
「ただいま」の声に、それまでの妄想が一挙に解消していく。「どこをほっつき歩いていたんだよ」「ごめん、仕事が伸びてしまってよ。それに帰りがけに今日は十三夜だと気がついてさ、土手のすすきを集めていたら、こんなに遅くなっちまった」妻は夫の胸に飛び込んで泣いた。
 日常というのは、「おはよう」 「いってらっしゃい」 「ただいま」 「おやすみ」の連続なんだろうと思う。自分の「あて」はそんな日常の中にしかないけど、それはとても大切なものなんだということを藤沢周平さんの小説を読むと思い知らされる。些細な事がとても愛おしいのだ。 
きっと、日常から離れてあてのある仕事に我を忘れているとき、ふと気がつくのはそうした些細な日常にちがいない。藤沢周平が、こうしたささやかな日常を丹念に描いたのは、きっと「人生であるとき絶望的に躓き、回復不能な」体験があったからだと桶谷秀昭は言う。周平さんの市井小説は「とりかえしのつかない過去への愛情から生まれた」。

昭和7年の今日、五・五事件の狂気から遠く離れて。
by hontokami | 2014-05-15 05:45 | 藤沢周平 | Comments(0)

周平春秋

今は、一日中昼間のような世界。全てが明るみのもとに曝されてしまっている。一人一人かかえている「こころの闇」まで曝されてしまっている。
無性に周平さんの世界がなつかしい。こころに闇をかかえて、小さな小さな世界で生きている人たちに会いたい。
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by hontokami | 2014-05-14 11:24 | 藤沢周平 | Comments(0)

思い出すことといったら些細な事ばかり