米山保三郎への追悼句

空間を研究せる天然居士の肖像に題する 明治42年4月7日

空に消ゆる鐸のひびきや春の塔      漱石


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「君は建築をやるというが、今の日本の有様では君の思っているような美術的な建築を後代に残すなどということはとても不可能な話しだ。それよりも文学をやれ、文学ななら勉強次第で幾百年幾千年の後に伝えるべき大作ができるじゃないか」

 一高時代、漱石は同級生の米山保三郎の熱心な説得で、建築家をあきらめ文学を志す決心をした。米山保三郎は明治30年5月29日に享年29歳で亡くなった。
漱石は小説『坊っちゃん』の最後で、清の墓を米山保三郎が眠っている千駄木の養源寺にした。


by hontokami | 2017-04-14 14:43 | 坊っちゃん | Comments(0)

だから の時間


死ぬ前日おれを呼んで坊っちゃん後生だから清が死んだら、
坊っちゃんのお寺へ埋めて下さい。
お墓のなかで坊っちゃんの来るのを楽しみに待っておりますといった。
だから
清の墓は小日向の養源寺にある。
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「だから」の前までが坊っちゃんの思いで話なんだ。だからのあと、坊っちゃんは清の墓の前に立っている。
「だから」が過去と今を橋渡しをしている。
「だから」はその間の物語の展開を読者に委ねた漱石の仕掛けだったのかもしれない。

---(だから、ここからは妄想)----------------------------------------------------------------------------------

松山から帰って十年。坊っちゃんは妻と二人の子どもと一緒に先祖のお墓参りにきた。
七歳になった娘が小さなお墓をみて「これは誰のお墓?」と聞いた。
「清さんだ。お前たちのおばあさんなんだよ」
娘が言った。
「じゃあ、お父さんのお母さんなんだね」
坊っちゃんは空を仰いだ。清のしわくちゃの笑顔を思い浮かべていた。

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by hontokami | 2017-03-28 08:20 | 坊っちゃん | Comments(0)

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Photo by Shino
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ね!
ちゃんと「きよの墓」と書いてあるでしょ。
なんか変だけどね。
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by hontokami | 2017-03-27 21:38 | 坊っちゃん | Comments(0)

だから の秘密

『坊っちゃん』の最後のところ
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死ぬ前日おれを呼んで坊っちゃん後生だから清が死んだら、
坊っちゃんのお寺へ埋めて下さい。
お墓のなかで坊っちゃんの来るのを楽しみに待っておりますといった。
だから
清の墓は小日向の養源寺にある。
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井上ひさしはこの「だから」を「日本文学史を通して、
もっとも美しくもっとも効果的な接続言」と言っている(『自家製 文章読本』)


なぜなんだろう? 試しにほかの接続言を代入してみた。


お墓のなかで坊っちゃんの来るのを楽しみに待っておりますといった。
それで
清の墓は小日向の養源寺にある。
お墓のなかで坊っちゃんの来るのを楽しみに待っておりますといった。
そこで
清の墓は小日向の養源寺にある。
お墓のなかで坊っちゃんの来るのを楽しみに待っておりますといった。
なので
清の墓は小日向の養源寺にある。
お墓のなかで坊っちゃんの来るのを楽しみに待っておりますといった。
ゆえに
清の墓は小日向の養源寺にある。
お墓のなかで坊っちゃんの来るのを楽しみに待っておりますといった。
したがって
清の墓は小日向の養源寺にある。

by hontokami | 2017-03-27 17:45 | 坊っちゃん | Comments(3)

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『坊っちゃん』のクライマックスは、うらなり先生の送別の宴で坊っちゃんがまくし立てる、罵り言葉の羅列だろう。
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ハイカラ野郎の、ペテン師の、イカサマ師の、猫被りの、香具師の、モモンガーの、岡っ引きの、わんわん鳴けば犬も同然な奴とでも云うがいい
「おれには、そう舌は廻らない。君は能弁だ。第一単語を大変たくさん知ってる。それで演舌が出来ないのは不思議だ」
「なにこれは喧嘩のときに使おうと思って、用心のために取っておく言葉さ。演舌となっちゃ、こうは出ない」
「そうかな、しかしぺらぺら出るぜ。もう一遍やって見たまえ」
「何遍でもやるさいいか。――ハイカラ野郎のペテン師の、イカサマ師の……」と云いかけていると、椽側をどたばた云わして、二人ばかり、よろよろしながら馳かけ出して来た。
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この「言葉の列記」はじつは日本文学の伝統だったと、丸谷才一が指摘している。(「忘れられない小説のために」『闊歩する漱石』)
そのもっとも典型的な文学が『枕草子』だという。
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山は をぐら山 かせ山 三笠山 このくれ山 いりたちの山 わすれずの山 すゑの松山 かたさり山こそ いかならんとをかしけれ。いつはた山 かへる山 のちせの山 あさくら山 よそに見るぞをかしき。おほひれ山もをかし 臨時の祭の舞人などのおもひ出らるるなるべし。三輪の山をかし たむけ山 まちかね山 たまさか山 みみなし山    (十段
 
市は たつの市 さとの市 つばき市 大和にあまたある中に 長谷にまうづる人のかならずそこにとまるは、観音の縁あるにやと 心ことなり をふさの市 しかまの市 あすかの市 
 (十一段)
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by hontokami | 2017-03-17 17:00 | 坊っちゃん | Comments(0)

「坊っちゃん」に至る2

「坊っちゃん」一気に書き上げたころは、漱石は帝国大学の英文学科の講師だった。

・留学から帰ってすぐ、漱石は東京帝国大学の講師となり、3ヶ月間「英文学形式論」を講義し、9月の新学年から後に『文学論』としてまとめられた英文学の講義をはじめた。
おそらく、開口一番、こんな事を黒板に板書し、そして科学的な分析を駆使して文学を科学者のように解剖していった。
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まあ、なんとなくこんな意味じゃないのかな~?

文学を織物に例えてみると織物の縦糸がFで横糸が 
時間・場所・人物・風景の移ろいを縦糸F
その時々に感じる、感情・情緒・衝動という横糸を絡めていき、織物という物語が作り上げられる。

縦糸Fは「知、理論、理性、法則、因果律が仕切る領域
横糸fは情、人情、無意識が仕切る。

こんなこと考えながら文学を楽しむわけではないので、学生たちは戸惑ったに違いない。


by hontokami | 2017-03-15 13:13 | 坊っちゃん | Comments(2)

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 人生のどこかで、たとえ一時期であっても丸ごと無条件にだれかによって「愛された」という体験がわたしたちの幸福感の源であるような気がする。
その「だれか」が母であったり家族であったりする。

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子どもはどうしたって親を選べない。くじ引きのようなものなのだ。いい親に当たればラッキーだけれど、そうでない場合、子どもは大いに苦しめられる。
    小川糸「日曜日ですよ」3/12「毎日新聞」
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漱石の場合。
 両親が老人になってから生まれたために(50歳と42歳)「恥かっきこ」とされ、また異母姉を含めて五人の兄弟がいること、生家の経済状態がよくなかったこともあり、「余計者」として扱われた。母親とのスキンシップはほとんどなかったらしい。
 母乳の出なかったことも原因で、生後ただちに源兵衛村(現新宿戸塚)の八百屋に里子に出された。八百屋が新宿の通りに夜店を出したとき、金之助を駕籠に入れて地面に置いているのを、知人が見かけ可哀想に思い、姉のさわかふさに連絡して引き取って貰らい生家に戻されたという。
そして2歳の時、塩原昌之助・やすの養子となる。

 このときの事を漱石は『道草』で「同時に健三の気質も損はれた。順良な彼の天性は次第に表面から落ち込んで行った。さうして其欠陥を補ふものは強情の二字に外ならなかった」記している。
漱石は強情でわがままでいたずらな子どもになっていった。

漱石が自らの内にあったはずの「順良な天性」を与えてくれたのは、ひょっとして余計者として扱われた生家ではなく、駕籠に入れて地面に置いて乳を与えてくれた八百屋夫婦ではなかったのかな。「駕籠に入れて地面に置いた」のは、農家が乳飲み子を駕籠に入れて田圃のあぜ道に置いておくのと同じように丸ごと無条件に「愛している」ことの現れであってちっとも可哀想なことではないはずだ。「恥かきっこ」とか余計者と両親から扱われている生家に連れ戻すことのほうがよほど可哀想なことなのだ。案の定、赤ちゃんの漱石は、その夜、寝付かれず、一晩中泣き続けに泣いた。懐に入れて連れて帰った姉は父親に大いに叱れた(『硝子戸の中』
もしこの八百屋夫婦に育てられたとしたら、本来の順良な天性は失われることはなかったのではないか。

こうして「世の常の幼児にあたえられている母親のひざに身を寄せた安息の記憶」(江藤淳『漱石とその時代 第一部』)は奪われてしまった。まさに子は親を選べない。
漱石は強情でわがままでいたずらな子どもとして若殿のように振る舞いそれを咎めるような大人もいなかった。

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「おやじはちっともおれを可愛がってくれなかった。母は兄ばかりひいきにしていた。おれをみる度にこいつはどうせ碌なものにはならないと、おやじがいった。乱暴で乱暴でいく先が案じられると母がいった。なるほど碌なものにはならない。ごらんの通りの始末である。
 母が病気で死ぬ二、三日前台所で宙返りをしてへっついの角で肋骨をうって大いに痛かった。母がたいそう怒って、おまえのようなものの顔は見たくないというから、親類へ泊まりに行っていた。するととうとう死んだという報知が来た。そう早く死ぬとは思わなかった。そんな大病なら、もう少しおとなしくすればよかったと思って帰って来た。そうしたら例の兄がおれを親不孝だ、おれのために、おっかさんが早く死んだんだといった。口惜しかったから、兄の横っ面を張って大変叱れた。
                                            『坊っちゃん』
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この「坊っちゃん」の幼少年期は漱石のそれとみごとに重なっているように思う。
ただ違うのは「坊っちゃん」には自分をまるごと無条件に「愛してくれている」清がいたことである。


by hontokami | 2017-03-14 20:53 | 坊っちゃん | Comments(3)

喫茶店文化


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 漱石は東京帝国大学で明治38年9月から明治40年3月辞職するまでの2年間、『18世紀英文学』を講じた。(この期間、『我輩ハ猫デアル』、「坊っちゃん」「草枕」を発表している)その講義録が後に『文学評論』として出版された。英文学とは何かという難しい原則論を語りながら、18、19世紀の英国の社会事情や風物、文化が紹介されていて読み物としても面白い。たとえば十八世紀英国の喫茶店について。
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珈琲店は十八世紀の社会的生活に離すべからざる因縁関係を有して居る。社会的生活の上ばかりではない。文学にも直接間接に影響がある。是等の名称は無論の事、其景況が文学書中に散見する事もあるし、又此等建物へ文人輩が会合した事もあるし、そこで草稿を起したものさへある。珈琲店と云ふのは、上下貴賤共に出入りした所で、実際を云ふと、あながち珈琲を飲んだり、鉱泉を飲んだりする許りではない。そこへ行てぷらぷらする、或は新聞を読む、或は手紙を書く。或は今日の出来事を聞く。或はかるたを取る、或は政論をする。要するに甚だ軽便な所である。十八世紀に入って廿年とならぬ中に、倫敦の珈琲店の数が忽ち二千と云ふ数に達したと云ふのでも其盛大な事が知られる。
 此等の珈琲店には夫々得意があって是は坊主の行く所、是は町人の出入する所、是は法律家の贔屓する所と、大抵は皆受持が極つて居た様である。
まづ入場の時は1ペンスを払ふのが通則である。それら室内に入て珈琲を飲めば又1ペンス取られる。其代り新聞は随意に縦覧が出来る。手紙も珈琲店宛でやりとりが出来る。頻繁に出入する者はみな自分の席を持って居る。
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それからおよそ100年後、
浜松の上島に「Scene」という喫茶店が誕生して、15周年を迎えた。
その記念誌『Scene』に武田芳典さんが「住宅街に咲く豊饒な喫茶店文化」を寄稿した。
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 この本の中で十分にシーンの15年が描かれていて、さらに一文を加えることは、屋上屋を重ねることになると重々承知しながらも、シーンという類い稀なる喫茶店への、私の思い入れを書かせていただきます。
 私のシーン歴としては、開店当初からたまにお邪魔していたものの、足繁く通うようになったのは、近年のこと。週五日の営業ですから六日来る訳にもいかず、嫌われない程度に週に三日から五日、小さくなりながら顔を出させてもらっています。ここに通うようになって冷や汗が出ることが多々ありました。下手に知ったかぶりして口を開けば、必ずと言っていいほど、その道の先達が現れて、こともなげにそれに関する知識と経験が目の前に提示されるのです。山のこと、写真のこと、そして映画、絵画、工芸、文学、音楽、エトセトラ、エトセトラ。文化の宝石箱に私は魅了されました。
 文化と一口に言うものの、文化の定義とは何でしょう。大辞林では語義の一つに、「学問・芸術・宗教・道徳など、主として精神的活動から生み出されたもの」とあり、ブリタニカの小項目事典では、「人間の知的洗練や精神的進歩とその成果、特に芸術や文学の産物を意味する場合もある云々」、大辞泉では、各集団に「固有の文化があり、学習によって伝習されるとともに、相互の交流によって発展してきた」とあります。まさに、これではありませんか、シーンにおける文化シーンとは。個々が築き上げて来た文化的な所産が、シーンにおいて交換され、相互学習がなされていくのです。毎月変わるギャラリーとしての機能、客同士やマスターとの会話で交わされる情報、ワークショップ、サークル、コンサート。これらが日常の時の流れの中で、自然と存在しているのです。
 かといって、カルチャーセンターなどではなく、あくまで喫茶店です。珈琲と紅茶、両方ともに最上質なものが追究され、たゆまぬ進化がそこにあります。温かみと落ち着きのあるシンプルさに、数々のカップとインテリアの優美さが加わってハーモニーを奏で、非日常が自然なかたちで顔をのぞかせる空間のしつらい。また、常連客が占拠していて、それ以外のお客さんが入りづらいような雰囲気は全くありません。カウンターとテーブルの入り口側の席も、テーブルだけの奥の席も、どこも温かく迎えてくれます。独りで読書や物思いにふけりたい時、邪魔するものはありません。心地よい自由に満ちる空間です。カウンターに座ることが多い私も、たまに奥のテーブルで窓からシンボルツリーを眺めると、また全く違った景色に魅了されます。シーンの店内にはさまざまなシーンが織り込まれているのです。
 文化が、築き上げられ伝承されて来たものであるとするならば、シーンの文化は小倉さんご夫妻が守護者となって15年間で醸成されてきたものでしょう。そこには明らかな意図、志があります。「色々な年代、仕事の人が、情報交換のサロンとして使っていた、16世紀にイスタンブールにあった世界で最初の喫茶店『カフェカーネス』。同じように、趣味のことでも仕事のことでも、みんなが集まって話せる情報のターミナルとなる場所にしたい」、とこの本の第1章に書かれています。この志があるからこそ、文化の交差点であるこの場が成立し発展しているのです。差し出がましく、力技で交流が促される訳ではありません。絶妙なタイミングで、つながるべきときに、スッと手を差し伸べられ、人を繋ぐ目に見えない橋が架けられるのです。
 
 2016年の暮れ、マスターの入院手術で、初めて長めのお休みがありました。そして年明け、最初の営業日以降、多くのお客さんたちが、心待ちにしていたことを隠しようが無い笑顔を携え、訪れています。そこに、今までの15年が確固たるものとして如実に表れています。文化の存在する場には、必ずそれを守り育む担い手が存在します。そのようにして人によって織り成されたタペストリー、シーンは社会の一隅を照らす貴重な宝です。これからの5年、10年、15年、それぞれの節目の時に、シーンがどのような場となっているか、楽しみですし、そこに立ち会って行くことは私の希望の在り処でもあります。
 どこか心躍るものを抱き、白い板の外壁を横目に見て、階段を上り、チリリンと鳴るドアを開いた刹那、珈琲の薫香の出迎えに体がほっと緩み、穏やかで温かい笑顔が眼に飛び込んでくる。それが珈琲紅茶専門店シーンの日常であり、日々繰り返される奇跡の物語における、永遠のファーストシーンなのです。
                                 2017年1月記
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喫茶店「Scene」でO塾展を開いたとき、漱石本コーナーを設けてもらった。
そこのテーブルで、漱石と武田さんが珈琲を飲みながら、喫茶店文化について100年越しの対談をしている姿を想像していた。
漱石が英国の喫茶店で見聞していたことが、まさに上島のここ「Scene」でも実現されているとは。
漱石のくつろいだ笑顔がそこにあった。










by hontokami | 2017-03-08 09:52 | 坊っちゃん | Comments(2)

汽車の別れ

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東京を離れることになんの未練もないが、清と別れることだけはやはりつらい。
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出立の日には朝から来て、いろいろ世話をやいた。来る途中小間物屋で買って来た歯磨と楊子と手拭をズックの革鞄に入れてくれた。
そんな物は入らないと云ってもなかなか承知しない。車を並べて停車場へ着いて、プラットフォームの上へ出た時、車へ乗り込んだ
おれの顔をじっと見て「もうお別れになるかも知れません。随分ご機嫌よう」と小さな声で云った。目に涙が一杯たまっている。
おれは泣かなかった。しかしもう少しで泣くところであった。汽車がよっぽど動き出してから、もう大丈夫だろうと思って、
窓から首を出して、振り向いたら、やっぱり立っていた。何だか大変小さく見えた。
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このプラットフォームは九州へ行く兄を送った同じ新橋の停車場だ。
7年後の大正3年に東京駅が出来ている。

それからおよそ100年後
東京駅の別れと言えば伊勢正三の「なごり雪」もせつない別れをうたっている。

     動きはじめた汽車の窓に
     顔をつけて
     君はなにかいおうとしている
     君のくちびるがさようならと動くことが
     こわくて下をむいてた。

違うのは、100年後の東京駅の別れでは ホームの取り残されるのは「僕」だということだ。









by hontokami | 2017-02-17 18:36 | 坊っちゃん | Comments(0)

清と笹飴

越後の笹飴が登場するのは2カ所

ひとつは、坊っちゃんがいよいよ東京を離れて西国に立つという3日前に
甥の家に厄介になっている清を訪ねる。風邪で寐ていた。
夏休みには帰ってくるので、みゃげにほしいものはないかと聞くと越後の笹飴が食べたいという。
方角が違うと坊っちゃんが言う。

もう一つは、坊っちゃんが松山に着いて、さっそく中学を訪ね、山城屋という宿屋にもどり、2階で昼寝をした。
清の夢をみる。清が越後の笹飴を笹ごとむしゃむしゃ喰っている。笹は毒ではないかというと、清が「笹はお薬でございます」と云って
旨そうに喰っている

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                            『坊っちゃん』直筆原稿本(印刷)と越後の笹飴

 越後の高橋孫左衛門商店から届いた「本家笹飴」のパッケージには小島政二郎の文章が紹介されていた。
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「初めて高田の笹飴を口にしたのは大学の時だ。その後、新進作家になってから、片岡鉄兵と高田へ講演へ行って二度目にアメを食べた。
お菓子でこのくらい素で食べさせて、しかも旨いものは外にあるまい。見えも化粧も、背伸びまた誇示もなにもしていない。
それでいてうまいのだから言うことない。
こんな文章が書けたらいいだろうなあ……                小島政二郎『舌三寸』
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by hontokami | 2017-02-07 12:02 | 坊っちゃん | Comments(2)

思い出すことといったら些細な事ばかり