予感の金木犀

大学を卒業した「私」に先生が祝い膳を設けてくれた。奥さんはアイスクリームを作ってくれ、「私」はおかわりをした。
つい話し込んでしまい10時頃先生宅を辞した。
ぼくはこのシーンがとても好きだ。
この場面は先生と「私」がもう二度と会うことがないだろうことを暗示している。
「こころ」のなかで分岐点に位置しているように思うのだ。

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先生と奥さんは玄関まで送って出た。
「ご病人をお大事に」と奥さんがいった。
「また九月に」と先生がいった。
 私は挨拶をして格子の外へ足を踏み出した。玄関と門の間にあるこんもりした木犀の一株が、私の行手を塞ぐように、夜陰のうちに枝を張っていた。
私は二、三歩動き出しながら、黒ずんだ葉に被われているその梢を見て、来たるべき秋の花と香を想い浮べた。
私は先生の宅とこの木犀とを、以前から心のうちで、離す事のできないもののように、いっしょに記憶していた。
私が偶然その樹の前に立って、再びこの宅の玄関を跨たぐべき次の秋に思いを馳せた時、今まで格子の間から射していた玄関の電燈がふっと消えた。
先生夫婦はそれぎり奥へはいったらしかった。私は一人暗い表へ出た。
 私はすぐ下宿へは戻らなかった。国へ帰る前に調のえる買物もあったし、ご馳走を詰めた胃袋にくつろぎを与える必要もあったので、
ただ賑やかな町の方へ歩いて行った。町はまだ宵の口であった。用事もなさそうな男女がぞろぞろ動く中に、
私は今日私といっしょに卒業したなにがしに会った。彼は私を無理やりにある酒場へ連れ込んだ。
私はそこで麦酒の泡のような彼の気えんを聞かされた。私の下宿へ帰ったのは十二時過ぎであった。
                                               「こころ」三十五
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by hontokami | 2018-05-24 18:45 | こころ | Comments(0)

思い出すことといったら些細な事ばかり