どっしりと尻を据えたる南瓜かな  『就中……』58p より

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この句は『吾輩ハ猫デアル』の中編の序文に紹介されている。
この序文を読むと子規と漱石の友情のただならぬ深さをいつも感じてならない。
子規の忌日を糸瓜忌というのなら、漱石の忌日は南瓜忌といった方がいいのではと密かに思っている。
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『吾輩ハ猫デアル』ー中編・序ー

子規がいきて居たら「猫」を讀んで何と云ふか知らぬ。或は倫敦消息は讀みたいが「猫」は
御免だと逃げるかも分らない。然し「猫」は余を有名にした第一の作物である。
有名になった事が左程の自慢にはならぬが、墨汁一滴のうちで暗に余を激勵した故人に對しては、
此作を地下に寄するのが或は恰好かも知れぬ。季子は劍を墓にかけて、故人の意に酬いたと云ふから、
余も亦「猫」を碣頭に献じて往日の氣の毒を五年後の今日に晴らそうと思ふ。
 子規は死ぬ時に糸瓜の句を咏んで死んだ男である。だから世人は子規の忌日を糸瓜忌と稱へ、
子規自身の事を糸瓜佛となづけて居る。余が十艅年前子規と共に俳句を作った時に

  長けれど何の糸瓜とさがりけり

と云ふ句をふらふらと得た事がある。糸瓜に縁があるから「猫」と共に併せて地下に捧げる。

  どっしりと尻を据えたる南瓜かな

と云ふ句も其頃作ったやうだ。同じく瓜と云ふ字のつく所を以て見ると南瓜も糸瓜も親類の間柄だらう。
親類付合のある南瓜の句を糸瓜佛に奉納するのに別段の不思議もない筈だ。そこで序でながら此句も
霊前に獻上する事にした。子規は今どこにどうして居るか知らない、恐らくは据ゑるべき尻がないので
落付をとる機械に窮してゐるだらう、余は未だに尻を持って居る、どうせ持ってゐるものだから、先づ
どっしりと、おろして、さう人の思はく通り急には動かない積りである。
然し子規は亦例の如く尻持たぬわが身につまされて、遠くから余の事を心配するといけないから、
亡友に安心させる為に一言斷つて置く。
  明治三十九年十月     夏目漱石                 
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by hontokami | 2018-12-04 07:26 | Comments(0)