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加藤一二三さん
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将棋名人戦の大盤解説ををみた。場所はお馴染み有楽町朝日新聞裏、解説がはじまると、道はまたたく間にいっぱいになった。
 解説は加藤一二三八段で、丁度一日目打ちかけになった盤面の解説と、これからどう変化するだろうなどということをなかなか要領よく聞かせる。
大山名人が、中原八段の四四にいる銀頭の歩に四五歩と突っかけたまま、三五歩と切り二四歩と切った場面である。
それからの先の変化は幾通りかあって、説明されてもあまりよく解らなかったわからないなりに面白いと思ったのは、
加藤一二三という人が、いかにもプロらしい断固とした言い方をしていたからだろう。
加藤八段が、八段になったのは二十前だったような気がする。いまも若い。
それでいて、下の道路で口をあんぐり開いて聞いているアマが、束になってもかなわない力を持っているということが、
その場の雰囲気で実によくわかって面白かった。
こういう決定的な強さというものが、プロのプロたる所以のものだろうと思う。
アマがすぐにとってかわり得るような強さは、本当のプロの強さとは言えないし、プロ面することもどうかと思う。
プロはアマと隔絶した強さを持っていてこそプロである。(昭和47年6月12日)
                                                    『甘味辛味』
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ぼくにとっては、加藤一二三さんと王貞治さんは、同年代として希望の星だ。一緒に歩いてきたという実感がある。
一二三さんの今の味わいは、とてもぼくには出せないな~と思う。プロ中のプロとしての余禄みたいなものがにじみ出ている。

by hontokami | 2018-01-19 05:20 | 藤沢周平 | Comments(0)

周平春秋9 えらい人

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えらい人
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私は性格にカタムチョなところがあり、また作家という商売柄、人間の美しさを追い求める反面、汚なさも見落とすまいとするので、
世間でえらいという人をも簡単には信用しない。時どきえらいな、と思う人に出合うことがある。
その人は、冷害の田んぼにたちつくす老いた農民だったり、子供のときから桶づくりひと筋に生きて来た老職人だったりする。
出合う場所は、テレビの場合もあり、新聞の記事の場合もある。
彼らは、格別自分や自分の仕事を誇ることもなく、選んだ仕事を大事にして、黙々と生きてきただけである。
だが、それだからといって、そういう生き方が決して容易であったわけでなく、六十年、七十年と生きる間には、山もあり、谷もあったはずである。
しかし彼らはその生き方を貫き、貫いたことで何かを得たのだ、と私は皺深い農民の顔を写した写真を、つくづくと眺めるのである。
 彼らはじつにいい顔をしているのだ。高名な踊りのお師匠さんとか、政治家などにありがちな構えがひとつもなく、
彼らはありのままの顔をさらしている。彼らは誇るべきほどのものを持たない。
それなのに、ありのままの顔がすばらしいのは、彼らの顔の背後に、ずしりと重い人生が重なって見えるからだろう。
 人生を肯定的に受け入れ、それと向き合って時に妥協し、時に真向から対決しながら、その厳しさをしのいで来たから、
こういういい顔が出来上がったのである。えらいということはこういうことで、
そういう人間こそ、人に尊敬される立場にあるのではないかと、私は思ったりする。
実際人が生きる上で肝要なのは、そういうことなのである。
                『周平独言

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僕の母方の祖父は、生涯、2回をのぞいて、信州の片田舎の村から外へ出たことがなかった。飯田の町にも行ったことがなかった。
1回は日露戦争に従軍して朝鮮半島に渡ったとき。森鷗外のように馬に乗った軍服姿の記念写真をみたことがある。
2回目は、秋葉講で秋葉神社に歩いて峠を越えて行ったとき。その足で浜松まで行き、自笑亭の弁当を喰った。

いまでも鮮明に覚えていることがある。僕がまだ、小学校のころだったか。夏台風が一晩中荒れ狂ったことがあった。
風雨が収まった翌朝、祖父は僕を連れて小高い丘まで田んぼの様子を見に行った。
一面に横倒しになった稲、その上を決壊された水路から濁流が流れ込んでいる。
祖父はその場にしゃがみ込んだ。濁流の怖さに震えていた僕を祖父が抱き寄せてくれた。
祖父の体が小刻みに動いていた。泣いていたのだ。
しばらくして立ち上がると、足もとの土塊をつかんで「ちくしょう!」と叫んで濁流に投げつけてた。
仁王のように立ち尽くしている祖父の姿がいまだに脳裏に焼きついてる。



by hontokami | 2018-01-18 06:36 | 藤沢周平 | Comments(2)

周平春秋8 パチンコ

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パチンコ
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私は人と会って酒を飲んだり、碁会所に行ったり、パチンコをしに行ったりする。だがしょっちゅう酒を飲んでいては仕事にならないし、
碁会所も半日がかりで、時間を喰う。そういうわけで時どきパチンコ屋に行く。
 私が出かける支度をしていると、家内が「ご出勤ですか」などという。出かける時刻が大体決まっていて、その上背広に着がえて、
財布、ハンカチ、タバコ、手帳、万年筆と小物を全部納め、腕時計をはめて靴まで履いていくので、そう言うのである。
 だがそうやって、昼日中から人相けわしいにいさんたちの間にはさまり、玉をはじいていると、いかにも遊民といった感じで、肩身が狭い思いをする。
俳人一茶が「又ことし娑婆塞ぞよ草の家」という句に「遊民々々とかしこき人に叱れても、今更せんすべなく」と詞書をつけたが、
私もせんすべもなく、パチンコ玉をはじくわけである。この格好ひとつとっても、人に尊敬される立場にある人間でないことは明白である。
勤め人から物を書く商売に変わって、私は少し堕落したという感じを持っているが、この感覚は多分正しいのだ。
                                                   『周平独言』
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一緒に退職した友人が、これからはなにか共通の趣味をもたなくてはいけないというので、では「パチンコにしよう」と提案した。
しばらく続けたけど、手に持った玉をいれて、手加減で操作するというような悠長な台ではなくて、コンピューターゲームのように
せわしない。疲れる。スピードについていけない。半年ほどで退却した。
友人はいまだに続けている。いちどパチンコ屋で「あっ!校長先生!」と教え子に大きな声呼びかけられて、
周囲のみんなにふり向かれたときはさすがに恥ずかしかったという。おかげでたいぶ顔見知りが増えて、一緒に昼食をとることもあるという。
今年の年賀状では「なにか趣味を見つけましたか?おかげさまでパチンコ友がたくさん出来ました」と添え書きがしてあった。
僕はパチンコを続けられなかった脱落者の気分になっている。


by hontokami | 2018-01-17 21:13 | 藤沢周平 | Comments(2)

周平春秋5 好きな道

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好きな道 ー川岸の道ー
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生まれた村のすぐそばを川が流れていて、橋を渡って川岸を右に行くと泳ぎ場があり、左に行くと広い川原の砂場があった。
その砂場も私たち子どもの遊び場のひとつだったが、夏の間はもっぱら泳ぎ場がにぎわい、砂場に行くことは稀だった。
 そこで砂場とそこに行く道は、夏の間は忘れられたようになり、砂場のまわりにも小道の上にも雑草がはびこった。
ことに砂場のまわりは丈高い草が密生し、その上を強靱な葛の蔓がはいまわって足の踏み場もなくなる。
そして草むらの奥には蛇や毒虫がいて、触れると皮膚がかぶれる灌木まであった。
 しかし夏が終わって水遊びができなくなると、私たちは今度は左手の小道を歩いて砂場に行った。
そういう日は、昼顔の蔓が横切っている道に斑猫が出て、心得顔に私たちの前に立って跳んだりした。
 私たちは砂場で遊び、その合間に草むらに入り込んで、野いちご野葡萄の実をさがした。
そのころになると草はやや枯れいろが目立ち、芒は穂をもち、葛は可憐な花をつけて、川原は全体に明るくなっている。
夏の間のまがまがしいほどの勢いは失せていた。
 そして季節がさらに移ると、川岸の道はめっきりさびしくなり、私たちの足もいつとはなくそのあたりから遠ざかるのだった。
好きな道と言われて心にうかんで来るのはその道ぐらいだが、川岸の道がいまもあるのかどうかはさだかでない。
                                                        『帰省』
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「私の好きな道」
そう問われて、思い浮かんでくるのは、子供の頃の通学路かな、私鉄沿線のコロッケ屋のある小道、学生時代の駅前の喫茶店のある道、
家の前の坂道かな。  
こんなタイトルで特集をくんだらオモシロイかも知れない。ぼくはもう『豆』春号のことを考えている。




by hontokami | 2018-01-13 16:04 | 藤沢周平 | Comments(0)

周平春秋6 夫婦げんか

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夫婦喧嘩
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そういうわけだから、夫婦喧嘩をしても折れるということが出来ない。そこで困るのは食事である。
家内が自分の部屋に閉じこもって、パンなどたべている。やむを得ず自分で飯を炊く。
しかしおかずをつくる才覚まではなくて、漬け物バリバリ、お茶漬けサラサラぐらいで過ごし、
それもなくなるとご飯に生ミソをつけてたべる。
 そのころには、もう非が自分にあることは十分にわかっているのだが、
なにしろ妻に詫びるという項目が私の辞書にはない。
生ミソをつけた飯をかっこみながら、まだエッヘンなどとあたりをにらみ回している。
店屋ものとかカップヌードルとかにも頭がいかず、あくまで米の飯に執着するのも昭和ヒトケタ風。
 やがて、いつまでもバカ亭主のお遊びの相手もしていられないという感じで、家内が台所に立つ。
あさましいことに二階で仕事をしながら、その気配がわかるんですね。
正直ほっとして、そういうときだけは、どうやらこちらも養われてらしいと気づくのである。
さいわいなことに、家内も昭和ヒトケタ女である。亭主に詫びごとが出来るとは思っていない。
もし私が詫びを言ったりしたら、つぎの瞬間、双方がテレにテレて収拾がつかなくなるだろう。
                                          『帰省』
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その通りなので、付け加えることなどひとこともない。
不思議なのは、なぜいつも妻の言い分の方が正しくて、自分の方が間違っているんだろうか。
いつも正しくて、疲れないんだろうか? というとまた逆鱗に触れるのでここだけのはなし。




by hontokami | 2018-01-12 12:19 | 藤沢周平 | Comments(2)

周平春秋3 冬の雨

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「冬の雨」
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いつ降り出したのか、雨の音がしている。強い雨ではなかったが、切れ目なく家を包み込むような、
静かな音だった。
………
家の中はしんとして、人は眠りの中に沈み込んでいるようだった。雨は小降りになって、
中庭の闇に囁くような音を立てているだけである。
茶の間から廊下に、行燈の灯がこぼれている。
碓氷屋の屋根の下で、そこだけが目覚めているようだった。
 その光もとどかない闇の一点を市兵衛は見つめている。
                                     『冬の雨』
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冬の小降りの雨はとくに寒さを感じさせる。
市兵衛は静かに酒を呑んで暖をとる。
呑めない私は、ワンタンで暖をとり、周平さんの冬の小説を読む。

by hontokami | 2018-01-09 19:55 | 藤沢周平 | Comments(0)

常態であるやうな人びとの暮らしが、遠い江戸の市井にあつた」と桶谷秀昭さんが言う。(「人間哀歓をの風景を描いた作家」)
 でもさあ、彼の市井小説に登場する人びとだって、その日その日のささやかなあてはあった。十三夜の夕餉どき、なかなか帰ってこない夫を待っている妻。なにかあったんじゃないのか、どこかの女と歩いているのを見かけたという隣のおかみさんの告げ口などが頭の中に膨らんでいく。待ちくたびれたころ、夫はすすきの束を抱えて帰ってくる。
「ただいま」の声に、それまでの妄想が一挙に解消していく。「どこをほっつき歩いていたんだよ」「ごめん、仕事が伸びてしまってよ。それに帰りがけに今日は十三夜だと気がついてさ、土手のすすきを集めていたら、こんなに遅くなっちまった」妻は夫の胸に飛び込んで泣いた。
 日常というのは、「おはよう」 「いってらっしゃい」 「ただいま」 「おやすみ」の連続なんだろうと思う。自分の「あて」はそんな日常の中にしかないけど、それはとても大切なものなんだということを藤沢周平さんの小説を読むと思い知らされる。些細な事がとても愛おしいのだ。 
きっと、日常から離れてあてのある仕事に我を忘れているとき、ふと気がつくのはそうした些細な日常にちがいない。藤沢周平が、こうしたささやかな日常を丹念に描いたのは、きっと「人生であるとき絶望的に躓き、回復不能な」体験があったからだと桶谷秀昭は言う。周平さんの市井小説は「とりかえしのつかない過去への愛情から生まれた」。



by hontokami | 2018-01-09 14:17 | 藤沢周平 | Comments(0)

今年は藤沢周平の年になりそう。

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喫茶店の光景
藤沢周平さんの奥さんが郵便局へいくという。「オレもいく」といって一緒に家を出た。
奥さんが用事を済ませたところで、藤沢さんが「コーヒーをごちそうするよ」と言った。
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家内はさほどうれしそうな顔はしなかった。家内はわたしほどコーヒーが好きではなく、また私と一緒に喫茶店に行くと、

結局は飲み物を注文したりお金を払ったり、私がぼんやりしていれは砂糖まで入れなければならない。

要するに雑用係にされるのが眼に見えているので、コーヒーをごちそうする式の偽善的な言い回しにはもうあきあきしているという顔をするのである。
おたがいの見あきた初老の夫婦が喫茶店で顔をつき合わせたところであまり話すこともない。・・・むっつりとお茶を飲むだけである。
                                   「郵便局の角で」 (『小説の周辺』)
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老夫婦が喫茶店の片隅で、話もしないで静かにコーヒーを飲んでいる図は、他人からみれば「いい光景」かもしれない。

これを読んで思いだすことがある。

いつだったか、買い物で疲れたので、喫茶店で一休みした。やはり面と向かって話すことはない。

私は新聞を読む。カミさんは壁の絵を見つめている。

出てきた珈琲を飲み終わった頃、お互いに口から出た言葉は

「家に帰ってお茶でも飲みましょうか」「そうしよう」であった。



by hontokami | 2018-01-09 08:41 | 藤沢周平 | Comments(0)

海坂藩の職制図

数年前に藤沢周平の小説の舞台・海坂藩の職制図を鶴岡藩をモデルに作りました。これからは小説に登場する人物をこのなかに入れてみようと思っています。(ヒマですねえ!ヒマじゃなければ出来ないー笑ー)
よくわからないところもあります。たとえば、近習と小姓と小納戸はいずれも藩主の近くにいて、身の回りの世話をする役ですが、どのように分担されているのか、
用人と家老との分担などもちょっとわかりにくい。

               『蝉しぐれ』の文四郎は普請方の養子として育ち、郡奉行になりおふくさんに再会します。
               『三屋清左衛門』は小納戸役から累進して最後は用人となり52歳で隠居します。
               『必殺剣鳥刺し』の兼見三左エ門は近習頭取です。

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by hontokami | 2018-01-09 07:02 | 藤沢周平 | Comments(0)

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1992年64歳のとき、上杉鷹山と米沢藩を舞台にした『漆の実のみのる国』に取りかかった。
しかし94年から肝炎に苦しんだ。96年3月入院した。『漆……』の雑誌連載は中断された。あと四十枚というところだった。体調思わしくないなか、96年7月、自宅で机に向かい、原稿用紙6枚分を書き上げ、最終回とした。その半年後97年1月26日、69歳で亡くなった。

上杉鷹山と米沢藩の精緻を極めたものがたり『漆の……』を時間をかけて読んできて、最後のこの絶筆にさしかかったとき、まさに呆然とした。病をおして書きあげた6枚の文章のなんと美しいことか。そして漆の実が、鷹山が思っていたよりも小さかったことへのおどろきが最後にまた出てきて、素顔の藩主を周平さんは描ききってくれたんだなあと思った。周平さんのわたしたちへのメッセージなのかとも思った。

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(三十七)
莅戸善政は、例のごとくやや俯目に、黙然と坐って、治憲の声がかかるのを待っていた。治憲の前に差し出されているのは、のち十六年の組立てと呼ばれることになる善政の意見書だった。
治憲は一読してから顔を上げた。それは善政が隠退して書斎(部屋の隅のことである)に籠もっている間にまとめた改革案だった。そこには「総枇」など、隠退中の善政が心魂をそそいだ藩政改革のもとになる思想が扱われている。そのなかからまとまった改革案のひとつが、いま治憲の前に提出されている案の正体だった。
 改革政策案はその思案から生まれた、いわば果実である。
「よく出来ておる」
 治憲はその案の出来をほめた。だが、実際には、頭にうかんできたべつのことに気を取られていた。十六年組立てーー改革すべき項目を十六段階に分け、一年に一項目を実施してその上に次の新規の事業を積み上げて行くという方法である。
 善政は第一年目の事業に、藩政改革を挙げていた。当然そうあるべきことだった。藩政の乱れが、いま米沢藩の最大の障害となっている。武士が金儲けに狂奔していた。貧しいがゆえである。
 治憲はもう一度意見書に目を走らせた。そして後尾に殖産興業が控え目に配されているのを見た。
「殖産興業はもっとも肝心のことだが、これには資金の導入が必要だ」
 そしてつけ加えた。
「ところがわが藩はいま、すべての金主に背を向けられておる。どうするつもりか」
 善政は思い瞼を上げた。
「何とか、あたってみまする」
 何ともなるまい、と治憲は思った。ゆううつだった。
 しかしながら善政は、かたくなに凝りかたまった気金主たちの前に、裸のおのれを投げ出すようにして懇願し、ついにかれらが拒否の態度をひるがえして、藩の事業に出資する約定を取りつけたのである。
 殊に出府して藩最大の金主である三谷三九郎に会った善製は、まず従来の藩の係りが「彼所より借りて此処に返し、こちらより借りてあちらをくすぐり候」といわれた誠意のない対応を詫び、以後、もしこのような信義にもとることがあれば自分は 割腹も覚悟で対処いたすという腹をさらけ出した言い方で迫った。
 そして出資を待ちのぞんでいる藩の事業についてくわしく説明し、これらの殖産産業は資金の導入なくしては動かない旨を述べて懇願した。善政の誠意と迫力に圧倒された三谷はついに言った。どうぞ莅戸さまお手をお挙げください。もちろんそれによって、当方ももうけさせていただく身です。そこのところの誠意さえ示して頂ければ、資金を提供するに何の障りがありましょう。……
 その報告をうけた治憲のこころのなかに、ふたたび静かな感慨がもどってきた。
 しかし十六年組立てーー。この計画の特徴はすでに述べたように一年に一事業のみを行ない、積み上げて、その成果をたしかめながらすすめることである。事業の完結までには長年月を必要とする。年齢からいって、善政がこの財政組立ての成果である殖産産業が華咲くところをみることはおそらくむつかしかろう。
 しかし治憲はそのことに触れなかった。いたわりをこめて言った。
「善政、そなたのような人物こそ、真の政治家と申すものだ」
 善政はうつむき加減のまま、めずらしく微笑した。

治憲は享和二年に鷹山と改名し髪を総髪に改めた。文政五年、鷹山は池のほとりに出て、一月の日の光を浴びて立っていと。一月の光はか弱く、風はなかったが、光の中に冷ややかなものがふくまれていた。冬の日のつめたさである。
 鷹山は前年の十一月に、愛妻のお豊の方を喪った。糟糠の妻だった。その欠落感は大きく、冬日の中にじっと立ちながら、鷹山は胸の中に巨大な穴が空いている感覚を捨て切れない。
 だがいま鷹山の胸にうかんでいることは亡妻のことではなく、漆のことだった。
 米沢に初入部し、国入り前に江戸屋敷から国元にむけて大倹実施を発表したことで、入部するや否やむかえた藩士たちの激怒を買い、嘲罵ともいうべき猛反対の声を浴びてから五十年が経過している。白子神社におさめた大倹執行の誓文。竹俣当綱によって、漆の実が藩の窮乏を救うだろうと聞いて心が躍ったとき、漆の実は、秋になって成熟すれば実を穫って蝋にし、商品にすると聞き、熟すれば漆は枝先で成長し、いよいよ稔れば木木の実が触れ合って枝頭でからからと音を立てるだろう。そして秋の山野はその音で満たされるだろうと思ったのだ。収穫の時期が来たと知らせるごとく。
 鷹山は微笑した。若かったおのれをふり返ったのである。漆の実が、実際は枝頭につく総のようなもの、こまかな実に過ぎないのを見たおどろきがそのなかにふくまれていた。

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by hontokami | 2014-08-18 11:21 | 藤沢周平 | Comments(0)